夏休みを利用し、フランスの語学学校へ行ってきた。ヨーロッパ各国や、9月から仏の大学へ通う中国人、パティスリーを目指す韓国人とともに勉強してきた。思ったこと、感じた事、(研究にあまり関係してないことばかり)徒然に。
<一番よかったこと>
ご飯は何を食べても美味しい。味付けはオリーブオイルと塩コショウだけでも十分。素材がうまい。フランスパンは安いのにうまい!(値段は国で決められた基準がるそうだ。お金のない家庭でも、飢えに苦しむことのないように)
<一番戸惑ったこと>
挨拶。知らない人でもエレベーターやバス、時に歩いていても知っている人かのように自然と話しかけられる。そしてキスの嵐。おかえりなさいのキス。おやすみなさいのキス。投げキスも頻繁だ。そして男女関係なくウインクされる。ドキドキがとまらない。
<フランスの小学校教育>(現地の小学校教諭談)
・ミニ黒板は必需品(彼女はユニバーサルなものだと思っていたようで、日本にないことに大変驚いていた)・教科書は先生の裁量で決める。
・1クラス25人くらい
・教科書、文房具は本屋でそれぞれ購入
・自治体から与えられた金額で準備はするが、保護者から集金して学校で買うことはあまりない。(自治体によるかもしれない)
・バカンス多い7週間授業⇒2週間バカンス
・評価は学習内容がメイン
・モンスターペアレンツは名前こそ違え、この国でも先生を困らせているようだ
セネガルに共通していること多々ある(ミニ黒板、集金なし、バカンスの多さなど)。フランスの教育を探れば、もっとセネガルの教育がわかるだろうと思った。
おまけとして世界の教育事情(語学学校の生徒談)
・道徳、宗教、政治の授業があるところが多い。
・道徳と政治で「市民」という授業がある国もある。
日本はあえて政治を教えないと聞いたこともある。国民の政治への関心を減らし、政治家の思うようにしやすくするためだとの意見もある。実際、いろんな国の人に日本の政治について聞かれた。また、原発問題、歴史についても。もっと勉強したい。
また、災害についての授業では、日本を「un pays catastrophique(大惨事の国)」と言われてしまったのは言うまでもない。
<フランスで働くアフリカン>
自分のホームステイ先の近くにアフリカ人らしき人を発見。声をかけるとまさかのセネガル人。さっそく家まで訪問させてもらい、アフリカンコミュニティが市内にあると聞く。行ってみる。アフリカの様々な国、特にフランス語圏の国から来ている人たちが、大きな建物を借りて共同生活し、1階をレストランとして一般に公開していた。料理一人前2€。破格である。通う。もちろんセネガル人もおり、どうやって仕事を見つけたのか聞く。セネガルの同じコミュニティの人に紹介してもらったとのこと。彼らはだれもがセネガルに戻りたがっていた。セネガルにいる人々はヨーロッパへの出稼ぎは成功者としてかなり羨望の眼差しでみている。特にそのなかでもフランスはかなり上のランクにあるそうだ。しかし、ここに住む人々の多くは家族を残してきており、みな帰りたいと言う。
帰途の中で、バスを待っていたアフリカンの一人の老人がバッグから手紙をたくさん出した。家に届いた手紙だろう。隣で煙草をふかしながら騒いでいる若者グループに、手紙を訳してくれとお願いしていた。タトゥーやピアスをたくさんつけている彼らは、最後までしっかりと訳し、その手紙をどうしたらよいかまで教えていた。
<終わりに>
滞在中はいくつかの家庭にお邪魔させてもらった。彼らは言った。
「フランス人は地域で子どもを育てている。だから、他の子も叱るし、知らない人でも挨拶するし、子どもも困っていたら人を助けるのは家族を助けるのと同じくらい当たり前だと思っている。」
すべての人が同じ意識かはわからない。だが、これが本当なら、私がみてきたいろいろなものへの説明がつく。
セネガル人は帰りたがっている。しかし、フランスも十分にいい国だ。
私は日本に帰りたいとは思わなかったけれど。(研究進んでないからだけれど)
アフリカンコミュニティの食堂にて。ここはもうほぼセネガルであった。
料理のにおいと陽気な人々、そしてこのフィットするちびっこ。至福の時であった。
フランス人の8歳の少年。彼の家族と一緒に海へ行った際、浜辺にハートを描き、
「C’est mon coeur pour toi!(これは君への僕の気持ち!)」
人生初の体験に本気で惚れてしまうかと思った。
(以上の文章を書いたのはあのテロが起きる一日前であった。内容を変えずにそのまま載せることにした。フランスで知り合った友人から苦痛のメールが届く日々である。それを読み、フランスだけでなくシリアやイラク、他多くの紛争の中を生きる人々にも思いを馳せる。フランスに、世界中にどうか平和が訪れますように。)