続投になります。
今週(30日深夜)から震災支援で東北へ入りますので、ご報告申し上げます。
詳細は広大のHPにアップされておりますのでご覧ください。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/news/show/id/12491
慌ただしい師走に入ります。最近の震災支援の状況をお伝えします。
3月にIDECで結成された震災復興支援ボランティアOPERATIONつながりは、おかげ様で継続的に学生主体の震災支援活動を続けております。ここでは、「組織」というキーワードで幾つかの活動に触れたいと思います。
ある目標(ここでは被災者の精神的健康維持)を達成するためには、様々なアプローチが考えられますが、私がこのOPERATIONつながりという組織を通じて行っている手法は、
・事業計画(企画書)の策定 (→団体のポリシーに基づいたもの)
・完全分業化(それぞれの担当部署が仕事を受け持ち独自に動いている)
・意志決定機関である3種類の会議の設定(幹部会・総会・部会)
・複数媒体による広報活動(大学HPに震災ボランティアのアイコンを作ってもらいました!)
・大学・企業・自治体との連携
があります。被災地の課題・ニーズを明確化し、それに基づいた大目標や小目標を設定し、活動内容を具体化していく。この過程は国際協力の分野等で用いられているPCM手法が大いに参考になりました(評価にまでは至っていないですが)。この方法で、現在までに大小17の企画が成され、さらに現在も大きな企画が進行中です(参考資料)。
例えば、今回の東北派遣は主要企画の一つですが、留学生を含む26人の学生が現地で1週間活動するため、企画、交渉、広報等をスムーズに回すために、統括としてフルに頭を使っています。その中でも特に鍵となる部分は、資金の調達、地域企業との連携です。大学との交渉を実のあるものとするためには、団体のこれまでの実績を分かり易くアピールしなければなりません。そのためにマスコミに上手くかんでもらいます。テレビ・新聞・ラジオ等に頻繁に取材してもらっています。そして、広大と産学連携している企業様に協賛品をお願に回っています。ここでも如何に団体をアピールできるか、マスコミにかんでもらうかが鍵です。この東北派遣では、にしき堂様(もみじ饅頭)、イシカワ様(黒豆)、猫島商店様(広島菜)、あせひら様(ヨーグルト)から協賛品を頂いております。
これらの活動が学部生主体で動かせるようになったことが、大きな成果です。学部生にこのムーブメントを受け継いでほしいですから。また、この経験を国際協力の現場で生かすことができると確信しています。震災復興という大きな目標に向かい続けるために、これからも如何に組織を上手く動かして行くか、頭が休まることはありません。Taikaindia
2011年11月30日水曜日
東北行き
2011年11月22日火曜日
国際協力という悩み
早いもので、IDECを卒業するまで半年を切りました。悩んでばかりだった割には、自分はここで何が得られたのかということを自問する日々です。いろいろと事情が重なり、今のフィリピンというフィールドでやり始めてから1年で修論をまとめなければいけません。正直、もう少し時間をかけて一つのことをやり切りたいと思ったりもします。
私はこのIDECで国際協力を学んできましたが、未だに「国際協力」とは何かを自らに問うています。机上で途上国を想定した論を転がすことがそれに当たるのでしょうか?対象の国に入り人々の意見に耳を傾けることでしょうか?途上国の人々の意識や政治のシステムを変えることでしょうか?それともこれら全てを同時に行うことでしょうか?この研究機関を出て、より責任を背負う立場に立った時、この問いはいっそう色濃くなり自分に振りかかってくるのだと思います。ただ、私が最近思うことは、ここでやっていることが、途上国の現状と程遠いものではないのかということです。
例えば、少し飛躍した話ですが、今、コンゴ民主共和国では、資源争奪が原因で民兵、政府軍の間で内戦が続いています。村が襲われたくさんの住民が暴力を受け難民となっています。その内戦の大きな要因が、先進国が生産する電子機器(携帯・PC)の原材料になるレアアースという希少天然資源です。日本人は膨大な電子機器を購入し捨てています。それは持つ物と持たざる者の間に起こる負の連鎖だといえます。
私たちは、国際協力を学んでいて、今後、それを実践(?)していこうとしています。しかし、一般的な日本人と同じように電子機器をふんだんに使い、エネルギーを使って当たり前に生活しています。コンゴの内戦について考えているでしょうか?それに対して小さなアクションを起こしているでしょうか?途上国と資源の問題は、畑違いかもしれません。だから、身近なこと(途上国とリンクしたこと)に無関心でよいのでしょうか?むしろ一般的な日本人より私たちの方がそのような事に関心が強いことが普通なのではないでしょうか。
一つ気付いたことがあります。国際協力が「目的」になってはいけないなあ、ということです。何らかの原因(経済格差・民族対立・天災)で苦しい状況にある人々が、少しでもその状況から抜け出せることが目的であるべきです。そのためには、まず、国際協力を扱う人間が「身近な実践家」であることが必要なのではないでしょうか。また、悩みが深くなりました。
Taikaindia
ラベル: Daily story, 高橋大海
2011年9月15日木曜日
震災から半年の歩み
東日本大震災から半年が経ちました。
以前ほど東北は注目されなくなりましたが、依然として復興の歩みは続いております。
IDEC発の震災ボランティアの活動も、おかげ様で地道に続けられております。
先日、以前から温めておりました企画、震災復興支援ボランティア「つながり隊」が仙台へ向けて出発しました。
今回の計画は、前回のチャリティーイベント等で集まった広島の方々の思いを、東北に直接伝えたいという思いによるものです。近々、IDECジャーナルにも掲載される予定ですが、前回のチャリティーイベントでは、大学内外から多くの人に来て頂き、広島からできることを模索しました。当研究室からも、馬場先生、ラボメイト、さらに石原先生より、心温かいご支援を頂き、震災支援活動への大きなモチベーションとなりました。
今回の「つながり隊」では、学部生主体のチーム(日本人学生17名、留学生5名)が6泊7日の日程で、仙台市での震災支援活動に当たります。活動の概要は、事前ワークショップ・現地ボランティア・報告会と事後ワークショップという三部構成となっております。活動全体を通じて、学生に「東北支援とは何か?」という気付きをもたらすことが目的です。私は当計画の企画運営に当たってきましたが、中間発表会が近いため、現地入りはできませんでした(無念です)。
現地ボランティアでは、仙台津波災害支援センターのボランティア活動(家屋復旧、泥除去等)に参加すること、
そして、若林区の仮設住宅で、子どもの学習支援、住民のメンタルケア・交流会をすることになっております。
現地の学生主体団体L&Dさんと協力して行います。また、広島からは、広島大学、一般企業さんがこの企画に賛同・ご支援頂いております。ようやくではありますが、学生・大学・地域が一体となった震災支援活動が実現されつつあります。
20日にメンバーが広島に戻った後、ワークショップと報告会を計画しております。ぜひ、みなさんにも来て頂けたらと思います。そして、より多くの広島の方々に東北の現状をお伝えできたら幸いです。
また、随時、つながりのHPにあるブログ
http://t-trip.6.ql.bz/~t-trip/tsunagari/
にて、現地での活動がUPされる予定になっております。ぜひご覧ください。
広大HPのトップページにも記載中です。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/news/show/id/11844
それでは、今後ともご支援のほど宜しくお願い致します。
<朝6時、副学長から激励の言葉を頂きました>
広島大学震災復興支援ボランティアOPERATIONつながり
高橋大海 (IDEC)
2011年6月23日木曜日
◇過去の記憶とスコール◇
以前フィリピンの離島に滞在していた時に使っていたノートから、
必要な情報を抜き出していたら、ある一節を見つけた。
「それにしても、日本での私たちの暮らしを振り返ると、豊かな暮らしを享受しているはずの私たちが、まだ起こるとも起こらないともわからない漠然とした将来の不幸に対する不安から、‘生’が実践されている今という時を、ほとんどその保障のためにあてがっていることに気づく。私はあの男の人のさわやかな表情をいつまでも心に留めておきたいものだと思った。」(インドの樹、ベンガルの大地より)
南の国の人特有の緩慢なうごきと、からっとした笑みを何ともなく見ていると、
かなり前にインドで描写された一節に、再び息が吹き込まれたように感じる。
何かとやることが多かった日本から抜け出し、
熱帯の湿気に包まれてスコールを眺めていると、同じ世界でも場所によって時間の
流れ方がずいぶん違うのだなあと思ったりする。
雨季の入り口にさしかかっているルソンより。
Taikai Takahashi
2011年5月11日水曜日
震災から2カ月
私たちの日本に深刻な影響をもたらした、3.11の未曾有の災害から2カ月が経つ。全世界、日本全国、広島大学内も含め、これほど復興支援のムーブメントが大きな波となって拡がることは、過去になかったのではないだろうか。それだけ、この復興と人々の精神的ダメージの回復には膨大な時間を要するだろうことが、その裏側にはある。
東北の知人や、現地に入った人の思いを聞くと、ある共通したことが含まれていることに気付いた。それは、これだけ甚大な被害を受け、身も心も大きな疲労に包まれているたくさんの人がいる中で、しかし、圧倒的大多数の人は、震災の前も後も変わらぬ生活を続けているという事実であり、被災した土地からそうでない土地へ移動したときに、その世界の違いに驚くというものだ。あるいは、被災地の中でも瓦礫のすぐそばには坦々とした人々の日常の営みがそこに在り、外から入った者はその光景の中にある、凄まじい現実と、人々の変わらぬ日常の営みという二つのもの混在に、ある種のギャプを感じる。でもそれは、被災地の人が、現実を受け入れ(そうではない人もいる)、力強く復興の根を大地に下ろし始めているサインなのかとも思う。
また、その世界の違いというものは、私たちが遠く離れた被災地が、今はどうなっているのかという想像力を働かせるときに、それを難しくしている要因であるようにも思う。実際に見えないもの、思いを想像することは簡単ではない。ましてや、あれから2カ月が経った。人々の関心は時間の経過に反比例していくものだ。この遠く離れた土地でできる数少ないことの一つは、思いを風化させないことだ。被災地への人々の関心を、細く長く繋げていくことなのだと思う。震災から2カ月という今日、ここに思いを投稿させて頂いたのも、自分を含めた人々の思いを風化させたくないという、一つの戒めであるかもしれない。
かつて集落のあった場所(相馬市)
2011年2月24日木曜日
バックパッカ―(BPK)教師になる
開発途上国で教育協力に関わっていくときに、自分の中の教師としてのイデオロギーを形作っているものは、紛れもなく日本での教師経験である気がする。途上国の教室で生徒や教師に何かを伝えようとしているときは、自然と日本での教室でやってきたことをなぞっている。それだけ、日本での教科教育や学級経営、生徒指導の経験は、教育協力の現場で規範(Norm)となり得る。それをその国へ適用(apply)できるかは別だが。
2004年春、私はインドから帰り、バックパックの荷も解ききらないまま、福島県の県立高校の教壇に立った。丸坊主で日焼けし、ネクタイが妙に浮いている青臭い教師を、当時の生徒たちは驚きと好奇の眼差しで迎えてくれた。変な奴が来たなあという感じだ。彼らとの年齢差は5歳しか離れていなかった。ほとんど感覚だけで毎日の授業に向かっていた。でも驚くべきは彼らの好奇心だ。今どきの高校生がここまで純粋に反応してくれるのかと驚いた。
一方で、制服のスカートが限りなく短い金髪の生徒もいた。授業中は机の上にたくさんの辞書を積み上げ壁を作り外界と自分を遮断するかのようだ。教科書やプリント類がただ机の上に散乱し、茫然として視点の定まらない生徒もいた。突っ張った男子生徒とは、座る位置が少し違うというだけで押し問答になりぶつかった。今から思えば途上国の教室では到底見ることのないような光景ばかりだったが、それでもみな概して明るく素直だったと思う。
教育現場は閉鎖的だ。最近は特に生徒のプライバシーやら何やらで、学校内の出来ごことが公になることは非常に少ない。ましてや教室内の事となると、皆無だ。それは日本独自の風土と風習が関係しており、身内、内側の恥(恥ではないのだが)はできるだけ隠して出さないというものだ。もし世間の人々が日々教室の中で起こっていることを知ったとしたら、これは大ごとだ。あるいは案外その年齢の子供を持つ親はそれを知っていて、当たり前だと思っているのだろうか。さらに閉鎖的なことを増幅させる要因は、教員の同質性である。大抵の教員はその生い立ちで、比較的恵まれた家庭で育ち、成績もよく教育学部を出てストレートで学校に入り何十年・・ということが多い。今、複雑化する家庭環境を背負う難しい子供を相手しなければならなくなった教員は、いったい自分のどの段階の経験を駆使するのか?授業崩壊、学級崩壊、対教師暴力・・・。
BPKの教師は浮いた。閉鎖的で同質的な学校社会の中では、生徒にとって異色だったに違いない。私は理科の授業の合間に、「死の授業」というのをした。教師として伝えるべきことは何も教科のことである必要はないという持論のもと、今思えばとてもキワドい授業をしていた。簡単に言えば、身の回りから死というものが隠されるようになったことを、みなで考えるために、インドで見たことをそのまま生徒にぶつけてみるというものだ。その時には様々な生徒からの意見が溢れ、概ねやってよかったと思えたが、後に他の学校でやったときに同僚教員に、「思想的なことを生徒に話すのは危険だ」という意見を頂いた。それはごもっともだったが、私は生徒に一つでも多くの種類の考え方、生き方を見せて、考え選んでもらうことが教師に出来る数少ない仕事の一つではないかとも思う。
今の子供たちは、気付かないうちに閉鎖的な学校に対して拒絶感を示している。保守的な社会のレール(規範)を見せつける教師も必要ではあるが、いまやそれだけでは彼らは心を開かない。BPKや協力隊経験者など、異質な存在が学校現場に少しでもいてくれることが、子供にとっては大きな心のマージンとして作用していくのではないだろうか。
(BPK Taikai, T.) 
(Nikon F100, color)
2011年2月15日火曜日
バックパッカ―(BPK)のモンゴル (#1)
ここIDECにはモンゴル人は少ないが、もっとモンゴル人と接する機会があればいいと思う。というのも彼らはアジア人の中でも、もはやアジア人の枠を超えている。それは大相撲の上位力士にモンゴル人が多いのと関係しているのかもしれない。彼らは屈強で懐が深い。
2007年の春、北京から国際列車でウランバートル(UB)を目指していた。同じ1本の列車で国境を超えるというのは、これまでの国境越の中ではなかった。おそらく色々な部分で異なる中国とモンゴルを果たして列車1本で越えられるのだろうか。大気の霞む中国の田舎の風景を横目に流しながら、夕暮れには国境の町に到達し、列車は丸ごと大きな車庫に入った。車内では人民服を着たイミグレの職員が旅行者のパスポートを、テストの答案を回収するかのように一人一人の手から奪っていった。列車はジャッキアップされ車輪を全て大きいものに取り換えた。中国とモンゴルでは線路の幅が異なるからだ。効率が良いのか悪いのか、社会主義国から旧社会主義国へ渡るのに、何か腹の中がむずがゆくなるのを感じた。
朝目覚めると、口の中でじゃりっという感触があった。車内は粉塵で霞んでいた。窓から外を覗くとそこは砂漠だった。ゴビ砂漠だ。地の果てまで何も見当たらないような草と礫の荒野を線路が一本だけ延びており、そこを我々は走っている。人の渦から来た旅人には、そこはホワイトアウトしそうなくらい何もなく広かった。
ウランバートル(UB)はもうアジアではなかった。なぜか行ったことも無いロシアの匂いを感じた。人の顔立ち、看板の文字、殺風景な街並み、そして湿度の低さ、どれも今までのアジアでは嗅いだことのなかったものだ。私はいきなりそこで、スリ(強盗)に襲われた。UBはアジアでは有数の危険都市。バックパックを背負いタクシーに乗り込もうとしたとき、不意に男が目の前に立ち塞がった。なんだこいつ、邪魔するなと思った瞬間、ポケットに収められていた財布のチェーンがまさにもう一人の男によって切られたところだった。男は背を返し走り出し、私はバックパックをタクシーに放り込んで、後を追った。絶え間ない車の流れにぶち当たり立ち止った男の足に、私はしがみつき何かを叫んだ。次の瞬間、オレンジ色の財布が頭のはるか上の宙を舞った。晴れ渡った青い空に、オレンジ色の財布はスローモーションで向こうの方へ動いていった。ああ、やられた、誰かが道の向こう側でキャッチする手はずか・・。財布は意に反して道のど真ん中に落ちた。車が絶え間なく走っていたはずなのに、その瞬間、財布へ向けて一本の道ができた。私は二度と帰ってくるはずのなかった財布を手にした。
そんなふうな旅の始まりだったが、モンゴルはすごかった。おそらくアジアで最もBPK泣かせの国の一つだ。首都から離れると、公共の交通機関がなくなる。ある町では、乗合いバンのなかで客が集まるのを朝から晩まで待ち続けた。その間に酔っ払いが乗り込んで絡んできた。そのうち他の乗客と喧嘩になりその男は流血、ティッシュで拭いてやった。腹が減って食道へ行くと、大の男どもが昼間っから小さなテーブルを囲んでアリヒという安いロシア製のヴォッカを回し飲みしている。すぐに見つかりなぜか回ってきたそれを一気に飲み干した。ここはアル中天国だ。
私は人力・動力に頼る移動は止め、真剣に馬を買ってこの国を周ろうかと考えたが、オオカミが出るから止めた方がいいと言われ断念。そうか、まだオオカミがいるのか・・。まだ見ぬ果てもなく広がるチンギス・ハーンの大地を思った(つづく)。
(BPK Taikai, T.) 

(Nikon F100, color)
2011年2月7日月曜日
バックパッカー(BPK)の中国 (#1)
最近、なにかと中国の話題が多くなってきた。衣・食・住、どんな場面でもどこかでChinaという文字が躍る。ここIDECでも中国の話題は絶えない。私たちの中国観はこの先どうなっていくのだろうか。少しバックパッカー(BPK)時代の体験を振り返ってみたい。
BPKとして2007年に中国に入った。奇しくもその年の5月以降、チベット自治区への外国人の立ち入りが大きく制限され始める。インドやアジア地域を旅するBPKにとってチベットは天上の秘境であり、憧れの聖地だ。自治区内の標高は4000mを超え、岩と砂の砂漠が果てもなくシルクロードに伸びている。ほとんどの地域が当局によって渡航禁止区域とされており、公共の交通手段もない。BPKは何千キロもの荒野をヒッチハイクしながら、中国人に化け息を殺しながら旅する。世界で一番青い(藍色)とされる空を天に仰ぎながら。
中国と一言で言っても、そこを訪れて最初に気付かされることは、中国という国は存在しないということだ。ざっと見渡しても、北の朝鮮民族エリア、モンゴル族エリア、西の新疆ウイグル(ムスリム)系エリア、チベット族エリア、南の雲南山岳民族エリアなど漢民族と全く文化を異にするグループが多数存在し国土面積としても大きな部分を占めている。これらの民族はマイノリティとされているが、それは漢民族と比べた上での話であって、実際には一国として存在していてもおかしくない規模と独自性を誇っている。当局(漢民族)が最も恐れているのは、それらの民族が独立するために蜂起することだ。
当時、高校の教員をしていた私は、その辞令期限の最終日3月31日に、大阪の南港から蘇州号という船で上海へ向かった。BPKに戻ったわけだ。これまでアジア全域を渡り歩いてきたが、私は一瞬で中国に魅了された。まず英語が全く通じない。日本の比ではない。ハローすら知らないのかというくらい、一応は世界のマルチ言語としての英語を屁にも思っていない。これはえらいことになってきたという、久々の不安と焦りとまだ見ぬものへのスリル感が脳ミソを揺すった。
中国の魅力は、一言でいうと、漢民族の愛想のなさ(裏表のなさ)と、多民族性である。漢民族は愛想笑いをしない。他人(こちら)に興味がない。おそらく日本人が中国人に似ているということはあるが、BPKとわかっても身構えたりしない。ただ、一度話しだしたり、接点ができたりすると、猛烈に優しくなる。とにかく人口が多いので、漢民族の森をかき分けて、私は北のモンゴル民族エリアに抜け、そこからムスリムの蘭州を抜けチベット自治区の縁にそって甘粛省、四川省のチベットエリアを南下した。つまり、北方遊牧民族チンギス・ハーンの末裔が営むトナカイ遊牧のゲル(家)でバター茶をすすり、白い四角の帽子を被ったムスリムが出す羊の塩ゆでに卒倒しそうになり、チベット寺院ゴンパの周りを巡礼者と一緒に経を唱え数珠を練りながら歩き続け、そして漢民族の作る四川風麻婆豆腐に帰りついた、ということになる。中国という国をある線で北から南に縦に切ると、その切断面はこれほどまでに多彩で豊かな文化色を放っていた。
これほどまでに多彩な文化の塊を一つの国として維持していくのはどれほど大変なのだろうか。いや、無理があるのかなとも思う。
どれほど列車やバスを乗り継いで、山間の村に入っても、インターネット屋の看板を見つけることはそれほど難しくはない。携帯電話はもはや山奥の僧院の修行僧ですら片手に持ちながら、話歩いている。村には近代化されるよりも先に、世界中からの情報の波が人々の意思に関わらず入り込んでいる。その頭でっかちな歪な構造は、この先、まだ未開発の土地に住む人々の生活にどのように影響するのだろうか。多民族国家を力で抑えつけている中国という集合体の内部に、この情報の大きな波は徐々に波及し始めている。
(BPK Taikai, T.) 

(Rollei 35T black & white)
2010年5月13日木曜日
Beautiful holiday
Malo!(サモア語でHi!)。馬場研に入って初めての入稿となりました。
4月に入学した私たちにとっては、目のまわるような1か月が過ぎ、黄金週を地元の近く、紀伊半島最南端の古座川という所の山小屋でリフレッシュしてきました。
古座川は数少ない清流で、アユやテナガエビ、ウナギなどがおり、美味しい河です。
この河流域は、本州最後の秘境と呼ばれ、今回は道を走っていると、野生のキジに出会いました。キジや、ヤマドリはとても美味です。
ここでカヌーに揺られ、若葉鮮やかな森と、爽やかな青空を眺めていると、日々の喧騒が遠いことのように思えます。ようやく列島にも遅い春が来たようです。
その小屋で、こんな人に出会いました(一緒に行った知人ですが)。
10歳の少年を連れるお父さんで、脱サラした方です。PC関係の企業で働いていた方ですが、スローライフを求めて和歌山に移り住み、現在はPCを直したり、JAZZピアノを教えたりして生計をたてられています。奥さんはアユールヴェティック料理教室をされており、自然食材を使ったノンミート料理を提唱されています。
このようなスローライフをしたいと思う人はどんどん増えていっているのではないかと思われる今日ですが、私が焦点を当てたいのは大方こんなことです・・。
「理想と現実のギャップ」です。理想としてこのような生活をしたい人はごろごろいると思いますが、それを今の日本社会で実行に移すことがいかに困難であるかということです。それだけ、日本社会は何かの組織(会社)に属さないで生活している人に冷たい社会です。途上国に行くとそれらは全く逆転してしまいますが。
なぜ好きなライフスタイルを貫きにくい社会なのかなあ、と良く考えたりもしますが、一つには、もし国民全部がスローライフをしてしまうと、経済が停滞するどころか、国自体が倒れてしまうこともありますよね。だから国はそんな人に冷たいのではないでしょうか。
理想があり、現実がある。それでも理想を実行に移してしっかりと生きぬいているこの家族を、私はすごいなあと思いました。
10歳の少年が全てを表していました。今の子には珍しく物静かで、自然に対する好奇心が旺盛な子です。対象の裏にある何かを見通すような視線を持っていました。
こんな「出会い」が今回はありました。ラベル: Daily story, 高橋大海