2014年1月21日火曜日

研究の価値とは、どう決まるのかな?分からない。

文系と理系、そんな枠組みは、誰でも聞いたことあるのではないでしょうか。
そこで一つ最近思うことを記事にしてみました。

数学は、文系?理系?どちらなのだろうか。
個人的には、どちらでもいいのだけど、一般的には、理系教科となっているだろう。

よく知られた数学の難問がある。例えば、フェルマーの最終定理(肯定的に解決
済み)、ポアンカレ予想(肯定的に解決済み)、リーマン予想(未解決)など数えきれないほどある。
ここでは、フェルマーの最終定理を取り上げよう。その詳細は、インターネットで簡単に検索できるので、調べられてください。
この問題は、肯定的に解決されるまでに360年を要した超難問であった。そのコンセプトは、中学生でも理解できるだろう。
しかしその反例も上がらず、ガウスをはじめ名だたる数学者が取り組んでも解決されることはなかった。ちなみに解決したのは、プリンストン大学のア ンドリュー・ワイルズ先生。

さて、この問題について考えてみよう。360年間誰も証明することができなかったこの問題を解いたワイルズ先生の仕事に価値があるかどうかだ。
多くの人は、価値を認めると思われる。しかし、こんなことをいう人がいるだろう。

「360年間誰も正しいも正しくない、特に反例を誰も示すことが出来なかったのだから、ほとんど正しいと思われていた定理を今更証明しても、格段 に驚く結果ではない」

と。どう思われますか?

私は、人間の知性を一歩超えた数学界の大仕事に大きな敬意を払いたい。シンプルだけれでも、その証明の過程、取り組んだ中にあるアイディアなどに 意味があるのではないだろうか。単純に結果だけをみて、シンプルだから価値がある、価値がないと判断する、判断されることもあるだろう。しかし、それが本質に繋がるとも限らない。

ただ今、数学教育研究の枠組みで研究活動をしていると思っている。そんな中、数学が「学」なのか「術」なのか、そういった話もよく上がる。
例えば、試験管や薬品を使う実験をしていたとしよう。そのときには、いい実験をする巧さが必要なことは、誰もが感じることであろう。
しかし数学になれば、巧さがあるのかどうかが議論されたりする。微分積分の計算に巧さがあるのかどうかといった具合に。
数学の研究を少しかじったものとすれば、絶対に計算における巧さが存在する。
芸術的な計算を含む数学の論文は、数多くある。芸術的な計算を行える ことは数学者にとって重要な術なのだと思う。フェルマーの大定理の論文もその芸術の中の芸術の一つではないだろうか。
ただ、それが芸術的かどうかが一般人には分からないだけである。

最近では、統計リテラシーということで統計学が数学教育の中でしばしば議論される。数学や統計学の本質なり、数学教育の枠組みでいろいろ議論される。

今、国際協力研究科なので途上国に関連することを調べている。途上国を調べるのだから途上国に行くことは当たり前な感覚であろう。
それと同じように、数学教育をするのであれば、数学や近年では統計学そのものに、もっともっと触れてもいいのではないだろうか。
途上国に行く感覚で、数学や統計学に触れない理由が今一つ分からない。もう十分に身に付いているということなのだろうか。
いや、そうには見えない。
なぜならば、データ解析でいえば、たった一つの外れ値的な結果に目がいき、そこへ批判が集中し、もっとも大事な全体像を掴む視点が失われることが ある。
またデータやその分析は重要ではなく、その論文の問題意識や課題に興味がそそられ、科学的な観点がごっそり抜けた分析結果が本質として主張されて いるものも少なくない。しかし、計量経済学や計量心理学、計量社会学のように計量とつく学問分野に近い数学教育研究は近年増えている。
今後、途上国研究においても、途上国に行く感覚で他分野の知見に触れなければならないときが来る、というかそこまで来ているように思う。そのときに、今ある私にどんな専門性があるのか甚だ疑問である。勉強しなければ。

今年は、そんな気持ちで頑張りたい。というかやめたくもなるが、とりあえずもう少しだけ続けてみよう。


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