言語を学ぶことは、通常何かができることに注目が行きがちである。特に、赤ちゃんが言葉を覚え始めて片言ながら言語を操り始める時は感動的である。 ところがあることができることの背景には、できない(しない)ことが並行していることを忘れてしまいがちである。サピア=ウォーフ言語相対仮説は、できることが文化によって相対的であることを示したが、それはできることはできないことと対になっていることをも意味する。
「1984年」は最近出たベストセラーの元本?である。最近で他方はまだ読んでおらず、それとの対比はできないが、博士論文以来のテーマ批判的数学教育の中に出てくるので、ずっと気になっていた1つである。今回、この後継本の人気にあやかり、手に取った次第である。
「言語を統制する(新しく作る)ことで、ある特定の見方をする(体制に迎合する)人間を育てる」ということが背景にある本で、オーウェル自身の経験がその中に色濃く投影されている。オーウェルは「戦争は平和である 自由は屈従である 無知は力である」と繰り返し言わせ、思想警察が新しい言語を管理する中で表現しようとしている。それに対して、批判的数学教育では、その目標を、数学を学ぶことである特定できることを習得させることのみならず、それによって失われる別のできること(別のできる可能性)に思いを至らせ、できることの偏りを考えさせることに特徴がある。例えば、平均値を学ぶことで集団における個々のデータを捨象して代表値を扱うことを学ぶわけであるが、このことは「統計で嘘をついたり、逆に統計にだまされたりする」ことと並行しているので、その危険性についても十分に検討する必要がある。また数学を用いたGNPや失業率など社会的な構成物が、どのような偏りを持っているのかを考察する力を身につけさせることを目論んでいる。
私たちが研究する開発途上国の世界で、このことがどのような意味を持っているのだろうか。まずは全体的に本来できるべきことが確実にできていないことが全体としてあるので、このことは、各人の認知的発達を十分に確保すべき本来の(政府の)役割が十分に発揮されていないこと、その様に認知的発達を推し進めないという形で、自らの地位を安泰にするという問題があるかもしれない。次に、認知的それを画一の授業の型に押しはめて、特定のものの見方を発達させて、それ以外の見方を排除することを意味しているかもしれない。いずれにせよ、単純に点数が上がることのみを教育の成果とするには問題がありそうである。
この点について、もう少し深めていく必要がありそうである。
馬場
2009年7月27日月曜日
ジョージ=オーウェル「1984」を読んで
時刻: 月曜日, 7月 27, 2009
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