少し前に「インドでわしも考えた」という本があった。今回は、それをもじって表記のタイトルを掲げた。ただし内容は極めてまじめで、IDEC的と言えるものだと思う。
数学教育には、集合間の関係として、排他的、包含的というものを考えることができる。AとBの積集合が空集合という場合、それは排他的と呼べ、一方が他方に完全に包含される、つまり積集合がそれ自身と変わらない場合、包含的関係と呼べる。
ところで、これらを現実にあてはめると、国境(ナショナリズム)は、排他的関係性を表現したものだと思う。そこには重なりがあってはならないし、時にはそれが戦争につながったりする。アルフォンス・ドーデ「最後の授業」はその悲劇を物語ったものとして有名である。それに対して、現在起きているグローバル化は、包含的関係性の一例である。アメリカ化と揶揄されたりする部分もあり、英語が幅を利かせていることもあるが、他方でアジアを中心に他地域も巻き込んだNICS、BRICS、VISTAなどという経済的な活性化は、確実に経済活動が世界をつなぐ規模になりつつあることを示している。これらの動向の中で、時に国境が必要以上に意識され、時にグローバル化が強調される。私たちは勧善懲悪の単純化した世界を描きがちである。それは精神的な安定を求めてのことだと思う。ところが実際の世界は、善のように見える悪や悪のように見える善が多数存在しており、その点ではこれらナショナリズムとグローバル化も、両者の側面を併せ持っていると言えるだろう。
そのような中、今回は4つの国にまたがる韓国・朝鮮文化を実感することができた。それは分断されているともいえるし、国境を越えてつながっているともいえる。つまり、大阪・鶴橋で焼肉を食べている自分と、北朝鮮に関するテレビ報道を見ている自分と、中国の朝鮮族の人とともに北朝鮮を見ている現在の自分というように、一人の人間(自分)がいろいろな局面でこの韓国・朝鮮文化に接している。それは個人という中で起きているつながりだが、情報網の発達、流通の発達、移動手段の経済化などがこのようなつながりの可能性を拡大している。他方でこのような可能性は気をつけていないと、文化的な独自性を簡単に破壊してしまいかねない。それは二つの集合の積が空でもなく、一方が他方を包含してしまうのではない、それぞれがその積を通じてつながっている事態を示している。それは今の場合、韓国・朝鮮文化である。
飛躍するが、数学は人間文化の普遍性を語る言語である。それを使って積の拡大-国際交流-をすることができればと思う。
馬場卓也
参考
中国は漢民族と55少数民族からなる。その中で、朝鮮族は約200万人で、なかでも吉林省に約120万人が居住する。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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