2011年2月15日火曜日

バックパッカ―(BPK)のモンゴル (#1)

ここIDECにはモンゴル人は少ないが、もっとモンゴル人と接する機会があればいいと思う。というのも彼らはアジア人の中でも、もはやアジア人の枠を超えている。それは大相撲の上位力士にモンゴル人が多いのと関係しているのかもしれない。彼らは屈強で懐が深い。
 2007年の春、北京から国際列車でウランバートル(UB)を目指していた。同じ1本の列車で国境を超えるというのは、これまでの国境越の中ではなかった。おそらく色々な部分で異なる中国とモンゴルを果たして列車1本で越えられるのだろうか。大気の霞む中国の田舎の風景を横目に流しながら、夕暮れには国境の町に到達し、列車は丸ごと大きな車庫に入った。車内では人民服を着たイミグレの職員が旅行者のパスポートを、テストの答案を回収するかのように一人一人の手から奪っていった。列車はジャッキアップされ車輪を全て大きいものに取り換えた。中国とモンゴルでは線路の幅が異なるからだ。効率が良いのか悪いのか、社会主義国から旧社会主義国へ渡るのに、何か腹の中がむずがゆくなるのを感じた。
 朝目覚めると、口の中でじゃりっという感触があった。車内は粉塵で霞んでいた。窓から外を覗くとそこは砂漠だった。ゴビ砂漠だ。地の果てまで何も見当たらないような草と礫の荒野を線路が一本だけ延びており、そこを我々は走っている。人の渦から来た旅人には、そこはホワイトアウトしそうなくらい何もなく広かった。
 ウランバートル(UB)はもうアジアではなかった。なぜか行ったことも無いロシアの匂いを感じた。人の顔立ち、看板の文字、殺風景な街並み、そして湿度の低さ、どれも今までのアジアでは嗅いだことのなかったものだ。私はいきなりそこで、スリ(強盗)に襲われた。UBはアジアでは有数の危険都市。バックパックを背負いタクシーに乗り込もうとしたとき、不意に男が目の前に立ち塞がった。なんだこいつ、邪魔するなと思った瞬間、ポケットに収められていた財布のチェーンがまさにもう一人の男によって切られたところだった。男は背を返し走り出し、私はバックパックをタクシーに放り込んで、後を追った。絶え間ない車の流れにぶち当たり立ち止った男の足に、私はしがみつき何かを叫んだ。次の瞬間、オレンジ色の財布が頭のはるか上の宙を舞った。晴れ渡った青い空に、オレンジ色の財布はスローモーションで向こうの方へ動いていった。ああ、やられた、誰かが道の向こう側でキャッチする手はずか・・。財布は意に反して道のど真ん中に落ちた。車が絶え間なく走っていたはずなのに、その瞬間、財布へ向けて一本の道ができた。私は二度と帰ってくるはずのなかった財布を手にした。
 そんなふうな旅の始まりだったが、モンゴルはすごかった。おそらくアジアで最もBPK泣かせの国の一つだ。首都から離れると、公共の交通機関がなくなる。ある町では、乗合いバンのなかで客が集まるのを朝から晩まで待ち続けた。その間に酔っ払いが乗り込んで絡んできた。そのうち他の乗客と喧嘩になりその男は流血、ティッシュで拭いてやった。腹が減って食道へ行くと、大の男どもが昼間っから小さなテーブルを囲んでアリヒという安いロシア製のヴォッカを回し飲みしている。すぐに見つかりなぜか回ってきたそれを一気に飲み干した。ここはアル中天国だ。
 私は人力・動力に頼る移動は止め、真剣に馬を買ってこの国を周ろうかと考えたが、オオカミが出るから止めた方がいいと言われ断念。そうか、まだオオカミがいるのか・・。まだ見ぬ果てもなく広がるチンギス・ハーンの大地を思った(つづく)。
                          (BPK Taikai, T.)

(Nikon F100, color)

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