開発途上国で教育協力に関わっていくときに、自分の中の教師としてのイデオロギーを形作っているものは、紛れもなく日本での教師経験である気がする。途上国の教室で生徒や教師に何かを伝えようとしているときは、自然と日本での教室でやってきたことをなぞっている。それだけ、日本での教科教育や学級経営、生徒指導の経験は、教育協力の現場で規範(Norm)となり得る。それをその国へ適用(apply)できるかは別だが。
2004年春、私はインドから帰り、バックパックの荷も解ききらないまま、福島県の県立高校の教壇に立った。丸坊主で日焼けし、ネクタイが妙に浮いている青臭い教師を、当時の生徒たちは驚きと好奇の眼差しで迎えてくれた。変な奴が来たなあという感じだ。彼らとの年齢差は5歳しか離れていなかった。ほとんど感覚だけで毎日の授業に向かっていた。でも驚くべきは彼らの好奇心だ。今どきの高校生がここまで純粋に反応してくれるのかと驚いた。
一方で、制服のスカートが限りなく短い金髪の生徒もいた。授業中は机の上にたくさんの辞書を積み上げ壁を作り外界と自分を遮断するかのようだ。教科書やプリント類がただ机の上に散乱し、茫然として視点の定まらない生徒もいた。突っ張った男子生徒とは、座る位置が少し違うというだけで押し問答になりぶつかった。今から思えば途上国の教室では到底見ることのないような光景ばかりだったが、それでもみな概して明るく素直だったと思う。
教育現場は閉鎖的だ。最近は特に生徒のプライバシーやら何やらで、学校内の出来ごことが公になることは非常に少ない。ましてや教室内の事となると、皆無だ。それは日本独自の風土と風習が関係しており、身内、内側の恥(恥ではないのだが)はできるだけ隠して出さないというものだ。もし世間の人々が日々教室の中で起こっていることを知ったとしたら、これは大ごとだ。あるいは案外その年齢の子供を持つ親はそれを知っていて、当たり前だと思っているのだろうか。さらに閉鎖的なことを増幅させる要因は、教員の同質性である。大抵の教員はその生い立ちで、比較的恵まれた家庭で育ち、成績もよく教育学部を出てストレートで学校に入り何十年・・ということが多い。今、複雑化する家庭環境を背負う難しい子供を相手しなければならなくなった教員は、いったい自分のどの段階の経験を駆使するのか?授業崩壊、学級崩壊、対教師暴力・・・。
BPKの教師は浮いた。閉鎖的で同質的な学校社会の中では、生徒にとって異色だったに違いない。私は理科の授業の合間に、「死の授業」というのをした。教師として伝えるべきことは何も教科のことである必要はないという持論のもと、今思えばとてもキワドい授業をしていた。簡単に言えば、身の回りから死というものが隠されるようになったことを、みなで考えるために、インドで見たことをそのまま生徒にぶつけてみるというものだ。その時には様々な生徒からの意見が溢れ、概ねやってよかったと思えたが、後に他の学校でやったときに同僚教員に、「思想的なことを生徒に話すのは危険だ」という意見を頂いた。それはごもっともだったが、私は生徒に一つでも多くの種類の考え方、生き方を見せて、考え選んでもらうことが教師に出来る数少ない仕事の一つではないかとも思う。
今の子供たちは、気付かないうちに閉鎖的な学校に対して拒絶感を示している。保守的な社会のレール(規範)を見せつける教師も必要ではあるが、いまやそれだけでは彼らは心を開かない。BPKや協力隊経験者など、異質な存在が学校現場に少しでもいてくれることが、子供にとっては大きな心のマージンとして作用していくのではないだろうか。
(BPK Taikai, T.)
(Nikon F100, color)
2011年2月24日木曜日
バックパッカ―(BPK)教師になる
時刻: 木曜日, 2月 24, 2011
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿