2011年2月24日木曜日

バックパッカ―(BPK)教師になる

開発途上国で教育協力に関わっていくときに、自分の中の教師としてのイデオロギーを形作っているものは、紛れもなく日本での教師経験である気がする。途上国の教室で生徒や教師に何かを伝えようとしているときは、自然と日本での教室でやってきたことをなぞっている。それだけ、日本での教科教育や学級経営、生徒指導の経験は、教育協力の現場で規範(Norm)となり得る。それをその国へ適用(apply)できるかは別だが。
 2004年春、私はインドから帰り、バックパックの荷も解ききらないまま、福島県の県立高校の教壇に立った。丸坊主で日焼けし、ネクタイが妙に浮いている青臭い教師を、当時の生徒たちは驚きと好奇の眼差しで迎えてくれた。変な奴が来たなあという感じだ。彼らとの年齢差は5歳しか離れていなかった。ほとんど感覚だけで毎日の授業に向かっていた。でも驚くべきは彼らの好奇心だ。今どきの高校生がここまで純粋に反応してくれるのかと驚いた。
 一方で、制服のスカートが限りなく短い金髪の生徒もいた。授業中は机の上にたくさんの辞書を積み上げ壁を作り外界と自分を遮断するかのようだ。教科書やプリント類がただ机の上に散乱し、茫然として視点の定まらない生徒もいた。突っ張った男子生徒とは、座る位置が少し違うというだけで押し問答になりぶつかった。今から思えば途上国の教室では到底見ることのないような光景ばかりだったが、それでもみな概して明るく素直だったと思う。
 教育現場は閉鎖的だ。最近は特に生徒のプライバシーやら何やらで、学校内の出来ごことが公になることは非常に少ない。ましてや教室内の事となると、皆無だ。それは日本独自の風土と風習が関係しており、身内、内側の恥(恥ではないのだが)はできるだけ隠して出さないというものだ。もし世間の人々が日々教室の中で起こっていることを知ったとしたら、これは大ごとだ。あるいは案外その年齢の子供を持つ親はそれを知っていて、当たり前だと思っているのだろうか。さらに閉鎖的なことを増幅させる要因は、教員の同質性である。大抵の教員はその生い立ちで、比較的恵まれた家庭で育ち、成績もよく教育学部を出てストレートで学校に入り何十年・・ということが多い。今、複雑化する家庭環境を背負う難しい子供を相手しなければならなくなった教員は、いったい自分のどの段階の経験を駆使するのか?授業崩壊、学級崩壊、対教師暴力・・・。
 BPKの教師は浮いた。閉鎖的で同質的な学校社会の中では、生徒にとって異色だったに違いない。私は理科の授業の合間に、「死の授業」というのをした。教師として伝えるべきことは何も教科のことである必要はないという持論のもと、今思えばとてもキワドい授業をしていた。簡単に言えば、身の回りから死というものが隠されるようになったことを、みなで考えるために、インドで見たことをそのまま生徒にぶつけてみるというものだ。その時には様々な生徒からの意見が溢れ、概ねやってよかったと思えたが、後に他の学校でやったときに同僚教員に、「思想的なことを生徒に話すのは危険だ」という意見を頂いた。それはごもっともだったが、私は生徒に一つでも多くの種類の考え方、生き方を見せて、考え選んでもらうことが教師に出来る数少ない仕事の一つではないかとも思う。
 今の子供たちは、気付かないうちに閉鎖的な学校に対して拒絶感を示している。保守的な社会のレール(規範)を見せつける教師も必要ではあるが、いまやそれだけでは彼らは心を開かない。BPKや協力隊経験者など、異質な存在が学校現場に少しでもいてくれることが、子供にとっては大きな心のマージンとして作用していくのではないだろうか。
                                                 (BPK Taikai, T.)
(Nikon F100, color)

2011年2月15日火曜日

バックパッカ―(BPK)のモンゴル (#1)

ここIDECにはモンゴル人は少ないが、もっとモンゴル人と接する機会があればいいと思う。というのも彼らはアジア人の中でも、もはやアジア人の枠を超えている。それは大相撲の上位力士にモンゴル人が多いのと関係しているのかもしれない。彼らは屈強で懐が深い。
 2007年の春、北京から国際列車でウランバートル(UB)を目指していた。同じ1本の列車で国境を超えるというのは、これまでの国境越の中ではなかった。おそらく色々な部分で異なる中国とモンゴルを果たして列車1本で越えられるのだろうか。大気の霞む中国の田舎の風景を横目に流しながら、夕暮れには国境の町に到達し、列車は丸ごと大きな車庫に入った。車内では人民服を着たイミグレの職員が旅行者のパスポートを、テストの答案を回収するかのように一人一人の手から奪っていった。列車はジャッキアップされ車輪を全て大きいものに取り換えた。中国とモンゴルでは線路の幅が異なるからだ。効率が良いのか悪いのか、社会主義国から旧社会主義国へ渡るのに、何か腹の中がむずがゆくなるのを感じた。
 朝目覚めると、口の中でじゃりっという感触があった。車内は粉塵で霞んでいた。窓から外を覗くとそこは砂漠だった。ゴビ砂漠だ。地の果てまで何も見当たらないような草と礫の荒野を線路が一本だけ延びており、そこを我々は走っている。人の渦から来た旅人には、そこはホワイトアウトしそうなくらい何もなく広かった。
 ウランバートル(UB)はもうアジアではなかった。なぜか行ったことも無いロシアの匂いを感じた。人の顔立ち、看板の文字、殺風景な街並み、そして湿度の低さ、どれも今までのアジアでは嗅いだことのなかったものだ。私はいきなりそこで、スリ(強盗)に襲われた。UBはアジアでは有数の危険都市。バックパックを背負いタクシーに乗り込もうとしたとき、不意に男が目の前に立ち塞がった。なんだこいつ、邪魔するなと思った瞬間、ポケットに収められていた財布のチェーンがまさにもう一人の男によって切られたところだった。男は背を返し走り出し、私はバックパックをタクシーに放り込んで、後を追った。絶え間ない車の流れにぶち当たり立ち止った男の足に、私はしがみつき何かを叫んだ。次の瞬間、オレンジ色の財布が頭のはるか上の宙を舞った。晴れ渡った青い空に、オレンジ色の財布はスローモーションで向こうの方へ動いていった。ああ、やられた、誰かが道の向こう側でキャッチする手はずか・・。財布は意に反して道のど真ん中に落ちた。車が絶え間なく走っていたはずなのに、その瞬間、財布へ向けて一本の道ができた。私は二度と帰ってくるはずのなかった財布を手にした。
 そんなふうな旅の始まりだったが、モンゴルはすごかった。おそらくアジアで最もBPK泣かせの国の一つだ。首都から離れると、公共の交通機関がなくなる。ある町では、乗合いバンのなかで客が集まるのを朝から晩まで待ち続けた。その間に酔っ払いが乗り込んで絡んできた。そのうち他の乗客と喧嘩になりその男は流血、ティッシュで拭いてやった。腹が減って食道へ行くと、大の男どもが昼間っから小さなテーブルを囲んでアリヒという安いロシア製のヴォッカを回し飲みしている。すぐに見つかりなぜか回ってきたそれを一気に飲み干した。ここはアル中天国だ。
 私は人力・動力に頼る移動は止め、真剣に馬を買ってこの国を周ろうかと考えたが、オオカミが出るから止めた方がいいと言われ断念。そうか、まだオオカミがいるのか・・。まだ見ぬ果てもなく広がるチンギス・ハーンの大地を思った(つづく)。
                          (BPK Taikai, T.)

(Nikon F100, color)

2011年2月7日月曜日

バックパッカー(BPK)の中国 (#1)

最近、なにかと中国の話題が多くなってきた。衣・食・住、どんな場面でもどこかでChinaという文字が躍る。ここIDECでも中国の話題は絶えない。私たちの中国観はこの先どうなっていくのだろうか。少しバックパッカー(BPK)時代の体験を振り返ってみたい。
 BPKとして2007年に中国に入った。奇しくもその年の5月以降、チベット自治区への外国人の立ち入りが大きく制限され始める。インドやアジア地域を旅するBPKにとってチベットは天上の秘境であり、憧れの聖地だ。自治区内の標高は4000mを超え、岩と砂の砂漠が果てもなくシルクロードに伸びている。ほとんどの地域が当局によって渡航禁止区域とされており、公共の交通手段もない。BPKは何千キロもの荒野をヒッチハイクしながら、中国人に化け息を殺しながら旅する。世界で一番青い(藍色)とされる空を天に仰ぎながら。
 中国と一言で言っても、そこを訪れて最初に気付かされることは、中国という国は存在しないということだ。ざっと見渡しても、北の朝鮮民族エリア、モンゴル族エリア、西の新疆ウイグル(ムスリム)系エリア、チベット族エリア、南の雲南山岳民族エリアなど漢民族と全く文化を異にするグループが多数存在し国土面積としても大きな部分を占めている。これらの民族はマイノリティとされているが、それは漢民族と比べた上での話であって、実際には一国として存在していてもおかしくない規模と独自性を誇っている。当局(漢民族)が最も恐れているのは、それらの民族が独立するために蜂起することだ。
 当時、高校の教員をしていた私は、その辞令期限の最終日3月31日に、大阪の南港から蘇州号という船で上海へ向かった。BPKに戻ったわけだ。これまでアジア全域を渡り歩いてきたが、私は一瞬で中国に魅了された。まず英語が全く通じない。日本の比ではない。ハローすら知らないのかというくらい、一応は世界のマルチ言語としての英語を屁にも思っていない。これはえらいことになってきたという、久々の不安と焦りとまだ見ぬものへのスリル感が脳ミソを揺すった。
中国の魅力は、一言でいうと、漢民族の愛想のなさ(裏表のなさ)と、多民族性である。漢民族は愛想笑いをしない。他人(こちら)に興味がない。おそらく日本人が中国人に似ているということはあるが、BPKとわかっても身構えたりしない。ただ、一度話しだしたり、接点ができたりすると、猛烈に優しくなる。とにかく人口が多いので、漢民族の森をかき分けて、私は北のモンゴル民族エリアに抜け、そこからムスリムの蘭州を抜けチベット自治区の縁にそって甘粛省、四川省のチベットエリアを南下した。つまり、北方遊牧民族チンギス・ハーンの末裔が営むトナカイ遊牧のゲル(家)でバター茶をすすり、白い四角の帽子を被ったムスリムが出す羊の塩ゆでに卒倒しそうになり、チベット寺院ゴンパの周りを巡礼者と一緒に経を唱え数珠を練りながら歩き続け、そして漢民族の作る四川風麻婆豆腐に帰りついた、ということになる。中国という国をある線で北から南に縦に切ると、その切断面はこれほどまでに多彩で豊かな文化色を放っていた。
これほどまでに多彩な文化の塊を一つの国として維持していくのはどれほど大変なのだろうか。いや、無理があるのかなとも思う。
 どれほど列車やバスを乗り継いで、山間の村に入っても、インターネット屋の看板を見つけることはそれほど難しくはない。携帯電話はもはや山奥の僧院の修行僧ですら片手に持ちながら、話歩いている。村には近代化されるよりも先に、世界中からの情報の波が人々の意思に関わらず入り込んでいる。その頭でっかちな歪な構造は、この先、まだ未開発の土地に住む人々の生活にどのように影響するのだろうか。多民族国家を力で抑えつけている中国という集合体の内部に、この情報の大きな波は徐々に波及し始めている。
(BPK Taikai, T.)

(Rollei 35T black & white)

2011年2月3日木曜日

全国数学教育学会

先日,愛媛大学で行われた全国数学教育学会に参加しました。自分の発表を通して得るものもありましたが,様々な方の研究発表を聞くことで,多くのことを考えるきっかけとなりました。中でも研究者と現職教師が共同で発表したセッションは,非常に興味深いものでした。教育における「理論」と「実践」の議論は,自分としても常に意識している点だったからです。

「理論」を現場の教師が深く理解すること,「実践」を教育研究者が真摯に受け止めること,その両者の歩み寄りが「理論」と「実践」の乖離を埋める一手立てになると考えます。しかし,理論と実践を結合させることが最終目的ではないはずです。発表の中で疑問に感じたことは,「如何にして教師が理論を用いるか」「如何にして理論を実践に生かせるか」ということに捉われすぎていた点でした。

他方で自分の関心は,教室内で生起した事象を如何にして理論化できるかという点にあります。ただし,大学でも現場の実践を理論化する研究が進められていますが,現場での実践を集約し、別の視点から捉え直して一般化しただけの理論に終始している研究が多いことも否めません。これでは,現場の教師に見向きもされないのは当然であろうと思います。ここで、教育研究の意義とは何か?ということを考えさせられます。

自分の今の見解は,研究は理論化することによってその役目を終えるのではなく,現場に対して新たな提案をしていく必要性が少なからずあるだろうという点です。そういった意味で,教師が創造的な授業実践を日々行っている現実を考えると,教育研究者にはそれを超える,より高度な創造力・思考力が求められているのだろうと言えます。教師の能力についてはよく議論されますが,今後は研究者の能力についても問われていくのではないかと思います。

松山と言えば道後温泉。歴史ある温泉に浸かりながら,理論と実践についてほんの少しだけ考えてみました。